インクリメント
年が明けて早々に僕達は集まり、白い息を吐きながら神社に小銭を投げ込み、人ごみにもみくちゃにされながらおみくじの内容について話して笑った。
ヤスノリは小吉で、アキコとモモカが中吉で、カズヨシと僕は凶だった。
アキコのくじには「想い人は現れます」とあって、ヤスノリは浮気は止してくれよと笑い、アキコは惚れ直すってことじゃない?とさらりと言ってのけた。
日が昇ってからも気温は氷点下のままで、僕達は寒さについて一通りの文句を言ったあと、駅の近くにあるファミレスに入ることにした。
彼女の海外への転勤を初めて知った僕達は彼女の心配をしたが、彼女自身はそのことを大して気にしていないようだった。
僕とモモカの好き勝手な野次のあと、ヤスノリの目標はフルマラソンに書き換えられ、アキコの海外旅行はヤスノリとアキコの新婚旅行になった。ヤスノリのプロポーズは、モモカの「結婚して行けばいいじゃない」という言葉に対する「じゃあ、そうする」という、なんとも締まらない一言となり、僕達は彼と彼女の思わぬ成り行きを盛大に喜んだ。
ヤスノリはまずタバコを止める方が先じゃないのか、と苦笑し、モモカはそういえばベトナムに味噌ってあるかな、なかったらインスタントのみそ汁を持っていかないとね、と呟いた。
好きなものを見るとき、聞くとき、食べるとき、触るとき、俺はそれが嬉しい。
だから好きなものを見付けて、増やして、もっと好きになって、嬉しい気分になれる瞬間を増やしたいと思う、と。
少しの間をおいてから、最初にモモカがじゃあアタシもそうする、と手を挙げて、それからヤスノリとアキコが頷いた。
3人がそろって僕を見つめ、僕もまたカズヨシに同意した。
今年も一年宜しくお願いします。と、なぜだかそれだけ敬語で挨拶を交わして。
ハンド・イン・ハンド
まるで何か許されないことをしているみたいに。
彼女から手をつなぐことは絶対になかった。
きっかけは彼女の家の猫が家出をしたときに、探す手伝いを頼まれたことだった。
あんなに必死になっていたくせに、彼女はまるで彼女の猫に興味がなかったようにも見えた。
彼女は彼女の猫を、ただ「ねこ」とだけと呼ぶ。
雨の日のダンボールから拾い出して数ヶ月。それだけの間、彼女は名前をつけることすらしなかった。
だから彼女の猫は、どうやら自分の名前を「ねこ」であると認識したらしかった。
そのうえ彼女は、ねこの性別がメスであることすら知らなかった。
それでも、彼女が彼女の猫をこのうえなく愛していることもまた、すぐに分かることだった。
狭い玄関をぬけて、狭い廊下の脇の小さなシンク。
白いドアを開けると、
おまたせ、と彼は微笑む。
寝入っていた彼女が目を開ける。
離れてなきゃだめだよ、感染っちゃう。
体調の悪い人らしいかすれた声で彼女はつぶやき、ねこを拾い上げて床へ落とす。
ねこは音もなく着地し、そして素早く彼女の膝の上へと戻る。
そこに至る幾つもの経験は、彼女のある種の人間性を決定付けてしまったのだろうと、彼は思う。
彼自身と、あるいは同じように。
常に遠慮がちな彼女にしては珍しく、素直にお椀を受け取ってスプーンを口へ運ぶ。
おいしい。と、彼女は呟く。
幸せだ、と彼は思う。
それから彼女は抹茶のアイスを選び、彼は残ったチョコレートのアイスを食べる。
もうすぐ帰るよ。君が薬を飲んで寝たら。と彼は答える。
だから彼女は薬も飲まずに布団へ戻り、ねこもまた素早く彼女の膝の上へ駆け込んだ。
彼は持参した文庫本を読んでいる。
ねこの気持ちよさそうな寝息が部屋の灯りをくすぐっていく。
彼女が不意に問いかける。
彼女は細く長く、微かな息を吐いた。
と彼女は言う。
わたし、弱ってるのかな。
眼を閉じたままささやく。
と彼は言う。
人に助けを求めることを知らなかった彼女の手のひらは、熱を発して少し汗ばんでいた。
その言葉に、彼女はひどく寂しそうに微笑んだ。
ありがとう。
それから彼女は彼に背を向けて、顔を枕に埋めて、静かに泣いた。
捨て猫と同じ彼女が求めたもの。
ちっぽけな暖かさ。
誰でも手のひらにおさめて当然のもの。
この人が幸せであれますように、と彼は祈る。
その幸せのひとつになれたなら、と彼は願う。
アングリー・ガール・チェインド・アンド・ブロークン
それは決まって父親の目の届かない場所で行われた。そうでないとき、母親はいつでも穏やかに笑う、優しげな女性のように見えたのに。
彼女は聡明な少女だった。
彼女は母親が怒ることに理由がないことに気付いていたし、その叱責に正当性がないことを理解していた。同時に彼女は母親の行いに深く傷付いていたが、決してそのことを表に出さないようにしていた。母は突発的な意味不明の怒りが過ぎ去ると、決まって小さな声で申し訳なさそうに謝ったからだ。
ただ、なぜ母がそんなにも怒りを自分に撒き散らすのか。
その理由だけが、彼女にはどうしても分からなかった。
幼かった彼女は母から受けた傷から発生する怒りを見えない小さな箱に押し込め、謝罪の言葉で鍵を閉めて心の奥底に沈めた。
様々な色の小箱は、静かな湖の底で永遠に保存されていく。
彼女は成長し、幼い少女からあどけなさを残す女性となった。母の手の中からはとうに抜け出し、彼女は大学生になっていた。
彼女は聡明な女性だった。
その怒りを表面に出してしまえば、まともな生活を続けることができなくなることは明白だった。幸いにして怒りの感情を制御することに関して、彼女は誰よりも慣れ親しんでいたから、それを隠すことは簡単だった。
少なくとも、彼女自身はそう認識していた。
隣家のドアの閉まる音はただの日常生活音であり、下らない冗談は友人同士の間のささやかなコミュニケーションであり、5分の時間のズレなどささいなことでしかなかった。CDの紛失もノートを忘れてきてしまったことも、友人達の意図するところではなかったことをきちんと分かっていた。
そうして彼女は、決して怒ることのない、優等生の温厚な女の子として認識されることになる。
その評価に対して抱いた怒りが正当なものなのか。
彼女にはもう、そんなことも分からない。
彼女は大学を卒業し、大手の印刷会社に勤め始める。
そして取引先との奇妙な偶然の果てに、一人の男性と付き合いを始めた。
不思議と彼にだけは怒りを覚えることはなかった。
生まれて初めて覚えるような穏やかな気持ちに、彼といる間だけは浸ることができた。
まるで奇跡のようだ、と彼女は思った。
恋と愛はこんなにも私達を幸せにする。
二年ほどが過ぎて、彼女は結婚し、ほどなくして子供をその身体に授かった。
出産の日が近づく中、彼女は唐突に理解する。
母親の怒り。どこから発せられるのかも理解できない、意味の分からない怒り。放出先をひとつだけに絞られた、正体不明の怒り。
彼女はそれを受け取り、心の中に沈め続けた。
彼女の中にはいつも怒りがあった。他人には決して理解することのできない、意味の分からない、正体不明の怒りだった。
彼女は聡明だった。
出産の日が近づいていた。
虐待は連鎖する。
その知識は彼女を怯えさせた。
夜にぞっとするような冷たさを覚えてふと目をあけると、枕元に小さな女の子が立っている。ガラス玉のような瞳をした少女は、ただ彼女を見つめている。
彼女は少女を知っていた。
幼かった昔の彼女自身。怒りに擦り潰され、湖の底に沈んだ聡明な女の子。
彼女は心から何か巨大な衝動が浮かび上がってくるのを感じる。確信する。きっと自分はまき散らす。そして注ぎ込むのだ。自分自身に、彼女の中のそれを。
彼女にはあまりに莫大で重く、かたちもなく方向もないその感情の処理の仕方が分からない。
自分の中に沈めてしまう以外には。
生まれてくる子供の中にいる彼女自身を、彼女は思った。
そうしてその時初めて彼女は気付く。彼女は彼女の母親を、どうしようもないほどに憎んでいた。
暗闇の中で彼女は目を覚ます。何か恐ろしい夢を見ていたような気がする。
ああ、なんであの人は、私を好きになることができなかったのだろう。どうして愛してあげることができなかったのだろう。
答えは明白だった。あの人はその形を知らなかったのだ。
子供が生まれたその日、彼女は生まれて初めて、心から泣いた。
こっそりと、誰にも分からないように。
子供が生まれて2ヶ月が過ぎた。
彼女は懸命に子供を育てた。雑誌を漁り、ネットで調べ、正しいと思えることのすべてを実行した。彼女は必死で良い母親になろうと努力した。あまり眠れなかった。どんな夜中に子供が泣いても彼女は平然とその世話をした。
彼女は完璧な母親だった。少なくとも周りの人間にはそう思えた。
ただひとつ、真正面からは決して子供を見ようとはしないことを除いては。
彼のなんでもないような言葉の響きに、感情がぞろり、と動く。
それを出してはいけない。怒りは寂しくて、辛くて、痛い。人には怒ってはいけない。あの痛みを、ひとを思うなら押し付けてはいけない。
ほら、見てよ。
彼は彼女の手を握った。赤ん坊は仰向けに寝て両手両足を持ち上げて楽しそうに声を上げる。
小さな、小さな手が、彼女の指先を精一杯に握る。
見たくなかった。
怒りは寂しくて辛くて痛かった。あんなものは嫌だった。あんなふうになるのは嫌だった。
けれど、視線が絡む。くりっとした大きくて黒い綺麗な瞳と、ガラス玉の瞳が合わせ鏡のように互いを映す。
子供は彼女を見て嬉しそうに笑っていた。
おかあさん、だいすきだよぅ、と子供は笑っていた。
彼女は彼を見た。彼は笑った。
あいしてるよ、と笑った。
答えは明白だった。彼女はその形を、まるで実在するもののようにはっきりと知覚した。
固まる前のセメントに猫の足跡が残されるように、それは心の平らな部分の形を永遠に変えた。
夜にぞっとするような冷たさを覚えてふと目を覚ますと、枕元に小さな女の子が立っている。ガラス玉のような瞳をした少女は、ただ彼女を見つめていた。
彼女は少女を知っていた。
彼女は少女の指先を握って、精一杯微笑んでみせて、それから泣いた。
少女は母親への底知れない怒りを抱え込んでいた。
けれど、本当は。
その人を好きになって、その人に好きになって欲しかっただけだったのだ。今の彼女にはそれがはっきりと分かる。
小さな、小さな手が、彼女の指先を精一杯に握る。
暗闇の中で彼女は目を覚ます。赤ん坊は静かに眠っている。
それから彼女は、声を押し殺して泣いた。
小さな嗚咽に、彼が起きだして彼女を抱き寄せる。
ねえ、聞いてくれる?
楽しい話じゃないけど。
高校生になった彼女は、彼女の友達と楽しそうに話している。
彼女の家で一緒に遊んだ、その帰りの道だった。
お母さん、すごく綺麗な人だね。優しそうだし。
すごいでしょ。自慢なんだから。なんでもできるし、とにかくすごいんだよ。
優しくて頭の良い母親は、彼女の誇りだった。
彼女の中には家族からもらったものがたくさん詰まっていて、それらは彼女にとっての宝物だった。彼女はそれらを見えない小さな箱にしまい、彼女の一番深い場所に大切に保管していた。
でもね。
彼女は意味ありげにきょろきょろとあたりを見回し、小さな声で素早く囁く。
さも恐ろしげに、けれど幸せそうに。
たまに怒ると、ほんと怖いんだけどね。いや、もう、ほんとに。
彼女の母親は滅多なことでは怒らない。
だけど、彼女のためにだけは本気で怒る人でもあった。
なぜ母がそんなにも怒ることがあるのか。
その理由を、聡明な彼女はよく理解していた。
ジンギスカン・ドリーム
ほっといてくれないか。とセンパイはいう。
頭の性能はすこぶる良いクセに、なぜセンパイが2度も浪人、あるいは留年することになったのか。私達は誰も知らない。
どうしたんですか、いったい。
素早く提供されたトンカツめがけ、私は勢いよくソースをぶちまける。
はっきり言って、私は落ち込んだセンパイが嫌いだった。
は?
まさに夢ですね。いいですね。3億円あたったら何しますか。
海外旅行ですか。いいですね。どこの国がいいですか。
なんで。
ジンギスカンですか。いいですね。私も好きです。肉。
チベットですか。
エベレストのことでしたっけ。いいですね。空気が綺麗で美味しそうですよね。山。
密度3分の1だけどな。
トンカツの最高の友人は、やはりキャベツの千切りに違いない、と私はいつも確信する。
は?
今週末は高尾山登って、帰りに焼肉ですね。
は?
マジです。
その通りだと私は思う。
落ち込んだときほど夢を語るのがいいと私も思う。
センパイのイヤホンはいつの間にか鞄の中にしまいこまれていた。
マジか。
マジです。
週末が楽しみだ。
センパイも楽しみだと思っていればいいな、と私は思う。
サウンドボックス・ロボット
おい、曲作り手伝ってくれよ。
ニイジマサヤカが挨拶もせずに彼の部屋へ飛び込んできたのは、8月の終わり、残暑も厳しい夏の夕方だった。
彼は一人暮らしで、作曲と編曲で飯を食っている音楽家の端くれだった。有名アーティストに曲を提供したこともある。超売れっ子というわけではなかったが、それでも一流と言って差し支えないレベルにあると彼は自負していたし、それだけの実力と実績があった。
自室にはそこそこ高級な音楽機材が山と積まれていてほとんど簡易スタジオのような有様で、彼女はそんな彼が一人で暮らすその部屋へ乗りこんできたのだった。
ニイジマサヤカは音楽仲間の中では有名な人間だった。
音楽狂い。と、彼女を知る人間は言う。
彼女はプライベートの時間の全てを音楽に使う。歌うときもあったし、パソコンに向かって曲を打ち込むこともあれば、ギターやピアノやバイオリンを延々と弾き続けるときも、難しい音楽に関する教本を眺めることもあれば、部屋中のガラスコップを取り出してきて並べ、それを楽器にして遊ぶこともあった。
必要最低限以外のすべてを彼女は音楽に捧げた。あらゆる動作の中で彼女はリズムをとった。果ては食事やトイレの時間まで。
彼女にとっては全てが音楽なのだという。楽器がなければ虫と鳥の鳴き声を、吹き抜ける風と葉擦れの音を、道を行き交う車とバイクのエンジン音を、部屋の扇風機の音を、パソコンや冷蔵庫から漏れる微かなモータの駆動音を。ありとあらゆる音を彼女は楽しんだ。
音楽があればそれで良い、と彼女はいつも言った。
彼女がきまぐれに開いた過去数回のライブは、今でもまるで伝説のように語られる。
彼女の曲に込められた何かは、ほとんど例外もなく聞く人々の心を揺さぶった。透明で、強く、激しく、それでいて儚く。彼女の声はほとんど麻薬のように観客を虜にした。
サヤカの歌はソウルだよ、と彼の友人は言った。
音楽仲間の中でニイジマサヤカは一種の憧れのような存在だ。
そして同時に、蔑みの対象でもある。
彼女は音楽以外のすべてに頓着しない。食べるものも、着るものも、住む場所でさえも。とりわけ他人の軽蔑を誘ったのは、彼女が音楽を通じて知り合った男の家を渡り歩くことだった。彼女が誰とでも寝る、というのは有名な話だ。彼女は身体を提供し、代わりに男達は住む場所と楽器を提供する。
音楽があればそれで良い、と彼女はいつも言った。
最低限食べて、寝て、生きていけさえすれば、あとは音楽だけあれば。それなら娼婦のように生きることは、合理的であるとも言えた。
必要なものは身体ひとつだけ。
それからひと月の間、ニイジマサヤカは彼の部屋にいりびたった。
二人でひたすらに曲を作った。
同じフレーズを数え切れないほど繰り返し、ほとんど完成しかけていたデータを何度もまるごと削除した。
セックスはしなかった。
ただひたすらに曲を作った。
そうして曲ができあがって、彼女は一度だけそれを通して歌った。
彼の演奏で。
4分33秒の、奇跡のような時間だった。
やっぱイサムの音はいいな。
彼女は嬉しそうに笑った。
これ、おまえにやるよ。
その次の日、彼が仕事のために外出している隙間をついて、彼女は素早く部屋を出て行った。
はじめからいなかったように、ほとんど痕跡も残さずに。
そうしてそれから2週間後、彼女は死んだ。
遺品はほとんど何もなかった。
彼女が最後に身につけていた衣服と安物のヘッドフォン、古びたウォークマン、そして彼女の音楽を除いて、何も。
質量を伴うものは全て、30mの落下の衝撃で激しく損壊していたけれど。
それはまるで、本当にまるで、彼女そのものだった。
彼のもとには、彼女と彼の二人で作った曲だけが残った。
古い、古いロボットが動いている。
人間から見捨てられて、もう誰も来なくなった錆びだらけの工場で、ロボットはずっと動き続けている。
円盤状の台に固定された6台の機械のねじを、何度も何度も何度も何度も何度も、適切なトルクで締め付ける。
ロボットはそれしか知らない。
そのために生まれてきて、そういうふうに作られて、それ以外には何も知らない。
そうプログラムされているから。
ある日ロボットは恋をする。
壊れかけたラジオから聞こえる雑音混じりの女の子の声に。
空っぽだったロボットは恋をする。
ロボットは、今日もねじを締め付け続ける。
今度は顔も知らない女の子のために。
行為は何も変わらなくても、それだけしかできないから、それだけならできるから。
その女の子のために。
適切なトルクで。
ずっと、ぐるぐると。
そうしていつか、ロボットは故障して停止する。
それでも幸せだったと思うのです。
誰かのために生きることができる瞬間があったのなら。
報われなくても、知ってもらうことすらなくても。
それはとても幸せなことなんだと、私には分かるのです。
ありがとう。
ニイジマサヤカの最期の音源を、彼はきっと公開することはないだろうと思う。
それは彼と彼女の歌だった。
ニイジマサヤカが、彼と作ったひとつだけの音楽だった。
ニイジマサヤカが、彼と彼女自身のために作った、たったひとつだけのものだった。
やっぱイサムの音はいいな。
彼女のあの言葉を大事に抱えて、きっと彼は生きていく。
音楽のために。