誰かの何かの文章置き場

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サウンドボックス・ロボット

 

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おい、曲作り手伝ってくれよ。

ニイジマサヤカが挨拶もせずに彼の部屋へ飛び込んできたのは、8月の終わり、残暑も厳しい夏の夕方だった。
彼は一人暮らしで、作曲と編曲で飯を食っている音楽家の端くれだった。有名アーティストに曲を提供したこともある。超売れっ子というわけではなかったが、それでも一流と言って差し支えないレベルにあると彼は自負していたし、それだけの実力と実績があった。
自室にはそこそこ高級な音楽機材が山と積まれていてほとんど簡易スタジオのような有様で、彼女はそんな彼が一人で暮らすその部屋へ乗りこんできたのだった。

ニイジマサヤカは音楽仲間の中では有名な人間だった。
音楽狂い。と、彼女を知る人間は言う。
彼女はプライベートの時間の全てを音楽に使う。歌うときもあったし、パソコンに向かって曲を打ち込むこともあれば、ギターやピアノやバイオリンを延々と弾き続けるときも、難しい音楽に関する教本を眺めることもあれば、部屋中のガラスコップを取り出してきて並べ、それを楽器にして遊ぶこともあった。
必要最低限以外のすべてを彼女は音楽に捧げた。あらゆる動作の中で彼女はリズムをとった。果ては食事やトイレの時間まで。
彼女にとっては全てが音楽なのだという。楽器がなければ虫と鳥の鳴き声を、吹き抜ける風と葉擦れの音を、道を行き交う車とバイクのエンジン音を、部屋の扇風機の音を、パソコンや冷蔵庫から漏れる微かなモータの駆動音を。ありとあらゆる音を彼女は楽しんだ。
音楽があればそれで良い、と彼女はいつも言った。

 

彼女がきまぐれに開いた過去数回のライブは、今でもまるで伝説のように語られる。
彼女の曲に込められた何かは、ほとんど例外もなく聞く人々の心を揺さぶった。透明で、強く、激しく、それでいて儚く。彼女の声はほとんど麻薬のように観客を虜にした。
サヤカの歌はソウルだよ、と彼の友人は言った。

音楽仲間の中でニイジマサヤカは一種の憧れのような存在だ。
そして同時に、蔑みの対象でもある。
彼女は音楽以外のすべてに頓着しない。食べるものも、着るものも、住む場所でさえも。とりわけ他人の軽蔑を誘ったのは、彼女が音楽を通じて知り合った男の家を渡り歩くことだった。彼女が誰とでも寝る、というのは有名な話だ。彼女は身体を提供し、代わりに男達は住む場所と楽器を提供する。

音楽があればそれで良い、と彼女はいつも言った。
最低限食べて、寝て、生きていけさえすれば、あとは音楽だけあれば。それなら娼婦のように生きることは、合理的であるとも言えた。
必要なものは身体ひとつだけ。

 

それからひと月の間、ニイジマサヤカは彼の部屋にいりびたった。
二人でひたすらに曲を作った。
同じフレーズを数え切れないほど繰り返し、ほとんど完成しかけていたデータを何度もまるごと削除した。
セックスはしなかった。
ただひたすらに曲を作った。

そうして曲ができあがって、彼女は一度だけそれを通して歌った。
彼の演奏で。
4分33秒の、奇跡のような時間だった。

やっぱイサムの音はいいな。

彼女は嬉しそうに笑った。

これ、おまえにやるよ。

その次の日、彼が仕事のために外出している隙間をついて、彼女は素早く部屋を出て行った。
はじめからいなかったように、ほとんど痕跡も残さずに。

 


そうしてそれから2週間後、彼女は死んだ。
遺品はほとんど何もなかった。
彼女が最後に身につけていた衣服と安物のヘッドフォン、古びたウォークマン、そして彼女の音楽を除いて、何も。
質量を伴うものは全て、30mの落下の衝撃で激しく損壊していたけれど。
それはまるで、本当にまるで、彼女そのものだった。

彼のもとには、彼女と彼の二人で作った曲だけが残った。

 

 

古い、古いロボットが動いている。
人間から見捨てられて、もう誰も来なくなった錆びだらけの工場で、ロボットはずっと動き続けている。
円盤状の台に固定された6台の機械のねじを、何度も何度も何度も何度も何度も、適切なトルクで締め付ける。
ロボットはそれしか知らない。
そのために生まれてきて、そういうふうに作られて、それ以外には何も知らない。
そうプログラムされているから。

ある日ロボットは恋をする。
壊れかけたラジオから聞こえる雑音混じりの女の子の声に。
空っぽだったロボットは恋をする。

ロボットは、今日もねじを締め付け続ける。
今度は顔も知らない女の子のために。
行為は何も変わらなくても、それだけしかできないから、それだけならできるから。
その女の子のために。
適切なトルクで。
ずっと、ぐるぐると。

そうしていつか、ロボットは故障して停止する。

それでも幸せだったと思うのです。
誰かのために生きることができる瞬間があったのなら。
報われなくても、知ってもらうことすらなくても。
それはとても幸せなことなんだと、私には分かるのです。

ありがとう。

 

 

ニイジマサヤカの最期の音源を、彼はきっと公開することはないだろうと思う。
それは彼と彼女の歌だった。
ニイジマサヤカが、彼と作ったひとつだけの音楽だった。
ニイジマサヤカが、彼と彼女自身のために作った、たったひとつだけのものだった。

やっぱイサムの音はいいな。

彼女のあの言葉を大事に抱えて、きっと彼は生きていく。
音楽のために。