誰かの何かの文章置き場

気晴らしにときどき書く文章の置き場所です

ハンド・イン・ハンド

 
彼の差し出した手のひらを、彼女はいつだっておそるおそる握り返す。
まるで何か許されないことをしているみたいに。
彼女から手をつなぐことは絶対になかった。
 

 
彼と彼女のつきあいはほんの1カ月前に始まった。
きっかけは彼女の家の猫が家出をしたときに、探す手伝いを頼まれたことだった。
あんなに必死になっていたくせに、彼女はまるで彼女の猫に興味がなかったようにも見えた。
彼女は彼女の猫を、ただ「ねこ」とだけと呼ぶ。
雨の日のダンボールから拾い出して数ヶ月。それだけの間、彼女は名前をつけることすらしなかった。
だから彼女の猫は、どうやら自分の名前を「ねこ」であると認識したらしかった。
そのうえ彼女は、ねこの性別がメスであることすら知らなかった。
それでも、彼女が彼女の猫をこのうえなく愛していることもまた、すぐに分かることだった。
 
その日、彼女が風邪をひいて、近所のドラッグストアで買った風邪薬とカップのアイスをぶらさげ、彼は 彼女のやたらとボロいアパートのドアを開けた。
狭い玄関をぬけて、狭い廊下の脇の小さなシンク。
白いドアを開けると、
 
なーあ。
 
彼女の布団の上の、彼女のねこが小さく鳴いた。
おまたせ、と彼は微笑む。
寝入っていた彼女が目を開ける。
離れてなきゃだめだよ、感染っちゃう。
体調の悪い人らしいかすれた声で彼女はつぶやき、ねこを拾い上げて床へ落とす。
ねこは音もなく着地し、そして素早く彼女の膝の上へと戻る。
 
人間の風邪って猫にもうつるのかな。
彼が笑う。
 
彼女は中学生の頃からひとりで暮らしていて、雨で濡れたダンボール出身のねこを、私と同じ、と形容した。
そこに至る幾つもの経験は、彼女のある種の人間性を決定付けてしまったのだろうと、彼は思う。
彼自身と、あるいは同じように。
 
手早くお粥を炊いて、軽く炒めた白ごまと、小さなミルで挽いたピンク色の岩塩を添えて彼女に渡す。
常に遠慮がちな彼女にしては珍しく、素直にお椀を受け取ってスプーンを口へ運ぶ。
おいしい。と、彼女は呟く。
幸せだ、と彼は思う。
それから彼女は抹茶のアイスを選び、彼は残ったチョコレートのアイスを食べる。
 
いつ帰るの、と彼女は聞いた。
もうすぐ帰るよ。君が薬を飲んで寝たら。と彼は答える。
だから彼女は薬も飲まずに布団へ戻り、ねこもまた素早く彼女の膝の上へ駆け込んだ。
 
しばらくの間、無言のままの時間が過ぎる。
彼は持参した文庫本を読んでいる。
ねこの気持ちよさそうな寝息が部屋の灯りをくすぐっていく。
彼女が不意に問いかける。
 
手を。
 
苦しそうな声だった。
 
手をつないでもいい?
 
その声を、彼は知っている。
手酷く裏切られた希望に、それでも諦められずにしがみつく人の声だ。
ただ手をつなぐことを求めるのに、どうして彼女はこんなに必死になるのだろう。
 
いいよ。
 
彼は素知らぬふりをして、差し出された彼女の手のひらをぎゅっと握り返す。
彼女は細く長く、微かな息を吐いた。
冷たくて気持ちいい。
と彼女は言う。
わたし、弱ってるのかな。
眼を閉じたままささやく。
 
ひとと手をつなぐのに、弱いも強いもないよ。
と彼は言う。
人に助けを求めることを知らなかった彼女の手のひらは、熱を発して少し汗ばんでいた。
その言葉に、彼女はひどく寂しそうに微笑んだ。
 
それからまた少し時間は過ぎて、音にもならない声で彼女は言った。
 
ずっと、ずうっと。あぁ。
ありがとう。
 
ねこの耳がぴくりと動く。
それから彼女は彼に背を向けて、顔を枕に埋めて、静かに泣いた。
 
20年間。
ずっと彼女が欲しかったもの。
捨て猫と同じ彼女が求めたもの。
ちっぽけな暖かさ。
誰でも手のひらにおさめて当然のもの。
 
そういうことを考え、彼の胸は小さく重く軋む。
この人が幸せであれますように、と彼は祈る。
その幸せのひとつになれたなら、と彼は願う。
 
彼は手のひらに少しだけ力をこめて、ぎゅっと握った。
彼女もまた、手のひらに少しだけ力をこめて、ぎゅっと握り返す。
 
なー。
 
と、彼女のねこが小さく鳴いた。