誰かの何かの文章置き場

気晴らしにときどき書く文章の置き場所です

ジンギスカン・ドリーム


ほっといてくれないか。とセンパイはいう。
 
センパイは違う部署に勤める同期の友人で、年齢は私の4つ上だった。他の同期の中にセンパイと同じ大学出身の奴がいて、その彼がセンパイをセンパイと呼ぶせいで、センパイの呼び名はそれに落ち着くことになった。
 
センパイは大体において理知的で落ち着いた人間だったが、ときどきひどく落ち込むときがある。そんなときセンパイは口数が増え、頻繁にジョークを飛ばし、就業時間が終わると同時に古いウォークマンを取り出して、あらゆる会話を拒絶する。
 
そのセンパイをいつも通りつかまえ、いつも通り近所の洋食屋で、いつも通りトンカツを2人分注文して今に至る。
 
センパイが沈み込む理由を私は知らない。ただ、そんなとき、普段は使わないセンパイの傷だらけの赤い折り畳み型のケータイの電源がオンになっていることだけを知っていた。
頭の性能はすこぶる良いクセに、なぜセンパイが2度も浪人、あるいは留年することになったのか。私達は誰も知らない。
 
それなら夢について話をしませんか。と私は言った。
 
そんな気分じゃない。ほっとけ。とセンパイはいう。
どうしたんですか、いったい。
 
なんだかみじめで苦しい気分なんだ。
理由なんてないよ。
 
しかしセンパイの答えを私は聞いていない。
素早く提供されたトンカツめがけ、私は勢いよくソースをぶちまける。
 
佐藤さ、いつも思うけどさ、それかけすぎじゃないのか。
 
いいじゃないですか。前向きじゃなくても具体的じゃなくてもいいので、何でもいいからやりたいものとかほしいものとか、ないんですか。
 
センパイの呆れたような言葉を無視し、私は聞いた。
はっきり言って、私は落ち込んだセンパイが嫌いだった。
 
宝くじ。
は?
 
宝くじあたんねーかな。買ってねーけど。
まさに夢ですね。いいですね。3億円あたったら何しますか。
 
んー、海外旅行とか?
海外旅行ですか。いいですね。どこの国がいいですか。
 
耳から外して、首にかけたままだったイヤホンをいじりながらセンパイは考え込む。
 
モンゴルかな。
なんで。
 
本場のジンギスカンが食いたい。
ジンギスカンですか。いいですね。私も好きです。肉。
 
あとチベットとか。
チベットですか。
 
チョモランマとかさ。地球の最高峰とか。なんかすげーじゃん。見てみたいよな。
エベレストのことでしたっけ。いいですね。空気が綺麗で美味しそうですよね。山。
密度3分の1だけどな。
 
センパイがトンカツをひょいと口に放り込む。
トンカツの最高の友人は、やはりキャベツの千切りに違いない、と私はいつも確信する。
 
 
じゃあ行きましょう。
は?

今週末は高尾山登って、帰りに焼肉ですね。
は?

センパイの希望通りですよ。美味しい空気吸って、美味しい肉食べて、あとは温泉とかいいですね。

マジか。
マジです。
 
センパイが苦笑する。
 
落ち込んだときは夢を語れ、というのは私の恩師の言葉だった。
その通りだと私は思う。
落ち込んだときほど夢を語るのがいいと私も思う。
 
ごちそうさまでした。と私は箸を置く。
つぅか、はやっ!と驚くセンパイのトンカツはまだ3分の1ほど残っていた。標高8848mの空気の密度と同じだ、と感心する。
 
奪ってやろうか、と意地悪く思案し、しかし落ち込んだセンパイから肉を奪うのはかわいそうかなと考え直し、食うか、と聞かれて迷わず箸を躍らせた。
 
はやっ!とセンパイが笑った。
センパイのイヤホンはいつの間にか鞄の中にしまいこまれていた。
 
 
 
ところでセンパイ、ジンギスカンってモンゴル料理じゃないですよ。
マジか。
マジです。
 
ぴったり1分の1になったお腹を満足してなでる。
週末が楽しみだ。
センパイも楽しみだと思っていればいいな、と私は思う。