誰かの何かの文章置き場

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アングリー・ガール・チェインド・アンド・ブロークン

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彼女の母親は、大した理由もなくしょっちゅう彼女をひどく叱りつけた。
まだ6才にもならない幼い少女に、歩き始める足が右なのか左なのかとか、意味の分からない理不尽なことで。繰り返し、繰り返し。
それは決まって父親の目の届かない場所で行われた。そうでないとき、母親はいつでも穏やかに笑う、優しげな女性のように見えたのに。

彼女は聡明な少女だった。

彼女は母親が怒ることに理由がないことに気付いていたし、その叱責に正当性がないことを理解していた。同時に彼女は母親の行いに深く傷付いていたが、決してそのことを表に出さないようにしていた。母は突発的な意味不明の怒りが過ぎ去ると、決まって小さな声で申し訳なさそうに謝ったからだ。

ただ、なぜ母がそんなにも怒りを自分に撒き散らすのか。
その理由だけが、彼女にはどうしても分からなかった。

幼かった彼女は母から受けた傷から発生する怒りを見えない小さな箱に押し込め、謝罪の言葉で鍵を閉めて心の奥底に沈めた。
数えることすらできないほどのその仕打ちの分だけ、彼女の内部にそれはひっそりと堆積していく。

様々な色の小箱は、静かな湖の底で永遠に保存されていく。




彼女は成長し、幼い少女からあどけなさを残す女性となった。母の手の中からはとうに抜け出し、彼女は大学生になっていた。
大学生になった彼女は、ほとんどあらゆることに怒りを抱く人間となった。
隣家のドアの閉まる音に怒り、友人の下らない冗談混じりの挨拶に怒り、講義の開始が5分遅れたことに怒った。貸していたCDを失くされたことに怒り、テスト前に貸していたノートを本番前に忘れられたことに怒った。
感情の大部分は、ほとんど全て怒りと区別をつけることもできない。
それは嵐のようで、彼女の心はいつもひどい悪天候に見舞われて続けていた。
彼女の沈めた小箱は腐敗し、その水溶性の中身を溢れさせていた。

彼女は聡明な女性だった。

その怒りを表面に出してしまえば、まともな生活を続けることができなくなることは明白だった。幸いにして怒りの感情を制御することに関して、彼女は誰よりも慣れ親しんでいたから、それを隠すことは簡単だった。
少なくとも、彼女自身はそう認識していた。
隣家のドアの閉まる音はただの日常生活音であり、下らない冗談は友人同士の間のささやかなコミュニケーションであり、5分の時間のズレなどささいなことでしかなかった。CDの紛失もノートを忘れてきてしまったことも、友人達の意図するところではなかったことをきちんと分かっていた。

そうして彼女は、決して怒ることのない、優等生の温厚な女の子として認識されることになる。
その評価に対して抱いた怒りが正当なものなのか。
彼女にはもう、そんなことも分からない。




彼女は大学を卒業し、大手の印刷会社に勤め始める。
そして取引先との奇妙な偶然の果てに、一人の男性と付き合いを始めた。
不思議と彼にだけは怒りを覚えることはなかった。
生まれて初めて覚えるような穏やかな気持ちに、彼といる間だけは浸ることができた。

まるで奇跡のようだ、と彼女は思った。
恋と愛はこんなにも私達を幸せにする。

二年ほどが過ぎて、彼女は結婚し、ほどなくして子供をその身体に授かった。
出産の日が近づく中、彼女は唐突に理解する。

母親の怒り。どこから発せられるのかも理解できない、意味の分からない怒り。放出先をひとつだけに絞られた、正体不明の怒り。
彼女はそれを受け取り、心の中に沈め続けた。
彼女の中にはいつも怒りがあった。他人には決して理解することのできない、意味の分からない、正体不明の怒りだった。
それらがどこからきて、どこへ受け継がれていくのか。

彼女は聡明だった。
出産の日が近づいていた。





虐待は連鎖する。
その知識は彼女を怯えさせた。

夜にぞっとするような冷たさを覚えてふと目をあけると、枕元に小さな女の子が立っている。ガラス玉のような瞳をした少女は、ただ彼女を見つめている。
彼女は少女を知っていた。
幼かった昔の彼女自身。怒りに擦り潰され、湖の底に沈んだ聡明な女の子。
彼女は心から何か巨大な衝動が浮かび上がってくるのを感じる。確信する。きっと自分はまき散らす。そして注ぎ込むのだ。自分自身に、彼女の中のそれを。
彼女にはあまりに莫大で重く、かたちもなく方向もないその感情の処理の仕方が分からない。
自分の中に沈めてしまう以外には。
生まれてくる子供の中にいる彼女自身を、彼女は思った。
そうしてその時初めて彼女は気付く。彼女は彼女の母親を、どうしようもないほどに憎んでいた。

暗闇の中で彼女は目を覚ます。何か恐ろしい夢を見ていたような気がする。
ああ、なんであの人は、私を好きになることができなかったのだろう。どうして愛してあげることができなかったのだろう。
答えは明白だった。あの人はその形を知らなかったのだ。
彼女もまた、その形を教えられなかったように。

子供が生まれたその日、彼女は生まれて初めて、心から泣いた。
こっそりと、誰にも分からないように。




子供が生まれて2ヶ月が過ぎた。
彼女は懸命に子供を育てた。雑誌を漁り、ネットで調べ、正しいと思えることのすべてを実行した。彼女は必死で良い母親になろうと努力した。あまり眠れなかった。どんな夜中に子供が泣いても彼女は平然とその世話をした。
彼女は完璧な母親だった。少なくとも周りの人間にはそう思えた。

ただひとつ、真正面からは決して子供を見ようとはしないことを除いては。


 
 
かわいいなぁ。
赤ん坊の頬を人差し指でつつき、彼は幸せそうに笑う。
かわいいねぇ。
 
なんにもわかってないくせに。

彼のなんでもないような言葉の響きに、感情がぞろり、と動く。
彼女は絶句する。
そのことに彼女はとうとうやってきた、と思う。
 
だめだ。
それを出してはいけない。怒りは寂しくて、辛くて、痛い。人には怒ってはいけない。あの痛みを、ひとを思うなら押し付けてはいけない。

ほら、見てよ。

彼は彼女の手を握った。赤ん坊は仰向けに寝て両手両足を持ち上げて楽しそうに声を上げる。
小さな、小さな手が、彼女の指先を精一杯に握る。

見たくなかった。
彼女の中の彼女の母親が、赤ん坊の中の彼女に怒りを向けるのが怖かった。
怒りは寂しくて辛くて痛かった。あんなものは嫌だった。あんなふうになるのは嫌だった。
けれど、視線が絡む。くりっとした大きくて黒い綺麗な瞳と、ガラス玉の瞳が合わせ鏡のように互いを映す。

子供は彼女を見て嬉しそうに笑っていた。
おかあさん、だいすきだよぅ、と子供は笑っていた。
彼女は彼を見た。彼は笑った。
あいしてるよ、と笑った。

答えは明白だった。彼女はその形を、まるで実在するもののようにはっきりと知覚した。
固まる前のセメントに猫の足跡が残されるように、それは心の平らな部分の形を永遠に変えた。



夜にぞっとするような冷たさを覚えてふと目を覚ますと、枕元に小さな女の子が立っている。ガラス玉のような瞳をした少女は、ただ彼女を見つめていた。
彼女は少女を知っていた。
彼女は少女の指先を握って、精一杯微笑んでみせて、それから泣いた。
少女は母親への底知れない怒りを抱え込んでいた。
けれど、本当は。
その人を好きになって、その人に好きになって欲しかっただけだったのだ。今の彼女にはそれがはっきりと分かる。
小さな、小さな手が、彼女の指先を精一杯に握る。
ガラス玉からしずくがこぼれだす。
 
ごめんね、辛かったよね。好きになってあげられなくてごめんね。あなたにそのことを教えてあげられなくて、ごめんね。

暗闇の中で彼女は目を覚ます。赤ん坊は静かに眠っている。
それから彼女は、声を押し殺して泣いた。
小さな嗚咽に、彼が起きだして彼女を抱き寄せる。

ねえ、聞いてくれる?
楽しい話じゃないけど。
 
わたしの話。





高校生になった彼女は、彼女の友達と楽しそうに話している。
彼女の家で一緒に遊んだ、その帰りの道だった。

お母さん、すごく綺麗な人だね。優しそうだし。
すごいでしょ。自慢なんだから。なんでもできるし、とにかくすごいんだよ。

優しくて頭の良い母親は、彼女の誇りだった。
彼女の中には家族からもらったものがたくさん詰まっていて、それらは彼女にとっての宝物だった。彼女はそれらを見えない小さな箱にしまい、彼女の一番深い場所に大切に保管していた。

でもね。

彼女は意味ありげにきょろきょろとあたりを見回し、小さな声で素早く囁く。
さも恐ろしげに、けれど幸せそうに。

たまに怒ると、ほんと怖いんだけどね。いや、もう、ほんとに。





彼女の母親は滅多なことでは怒らない。
だけど、彼女のためにだけは本気で怒る人でもあった。

なぜ母がそんなにも怒ることがあるのか。
その理由を、聡明な彼女はよく理解していた。